スネップ仙人が毒吐くよ

60代独身じじぃの独白記


【ネタばれ】セッションは最低最悪の糞映画

ラ・ラ・ランド、ムーンライトと来たら、やはりこれを観るしかないだろうと、映画セッションの感想。

 

snep1000.hatenablog.com

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結論をいうと

最低最悪の糞映画

だった。

デビルマン [DVD]

あまりに胸糞悪いので、アフィも貼らない。代わりにデビルマンである。

デビルマンは観てないがw

 

下手に出来が良いから、なおさら悪い。いや許せない。

いわずとも知られているだろうが、ラ・ラ・ランドと同じデミアン・チャゼル監督・脚本で、アカデミー賞でも3部門受賞のいわゆる名作である。

ラ・ラ・ランド同様に絶賛する声も多い。

だから俳優の演技、撮影、編集、etc.技術的に出来が良いのは認める。

だからこそ余計に始末が悪い。

 

どこが悪いかといえば全部嫌いなのだが、何よりもラストである。

最高潮のラストセッションで終わったこと。

そして敵役のフレッチャーを喜ばせて終わってしまったことである。

これが最低最悪の理由だ。

 

簡単にストーリーをまとめると

敵役のフレッチャーは最低最悪のアカハラ・パワハラの音楽教師・指揮者である。主人公のニーマンはジャズドラマーで、全米でも最高峰の音楽学校に入学するが、フレッチャーが指揮するバンドメンバーに加入させられ、肉体と精神の限度を超えた過激なしごきを受ける。しごきに精神崩壊したニーマンはアクシデントをきっかけにフレッチャーを暴行して退学になるが、フレッチャーも別の生徒の自殺事件訴訟が原因で教師をクビになる。フレッチャーはある大きなジャズのフェスで、和解したかのようにニーマンをバンドメンバーに誘うが、それはニーマンの音楽生命を絶つための罠だった。クビになった訴訟でニーマンが匿名証言したことを知り恨んでいたからだ。

 

つまり、ラストセッションはフレッチャーがニーマンの音楽生命を絶つための復讐の場であったが、ニーマンはその魂胆をはねのけ、最高といえる演奏をしてハッピーエンドという筋書きである。

 

あらゆる困難に打ち勝ち、最高といえる演奏をしてハッピーエンド。こんな素晴らしい結末はほかにない、完璧なシナリオ、絶賛するのが当然。

 

果たしてそれは正しいのか?

 

先ず、フレッチャーの罠にはまって、負け犬になるどころか最高の演奏で、復讐の復讐を果たしたという意見。

いや、これ全然フレッチャーへの復讐になってないっしょ!

途中から、フレッチャーはノリノリで、最後には笑顔を浮かべる始末。

つまり、結果的には最高の音楽を聴きたいというフレッチャーのエゴを満たしたことになり、しごきへの復讐になっていないのである。

 

次に、このラストは果たしてハッピーなのか?

映画は演奏の終了と共にスタッフロールに突入して終わってしまう。観客の絶賛、主人公のその後の人生までは描かれていない。すべては想像に任せる形である。

演奏への絶賛は間違いないとして、果たしてニーマンは幸せなのか?

ただ、フレッチャーのバンドメンバーとして奴隷に戻るだけではないのか?

運よくソロプレイヤーとしてプロの道が約束されたとしても、常にフレッチャーのしごきに耐えたから自分があるという、亡霊に付きまとわれることになるだろう。

それは音楽家としてハッピーな人生なのか?

そして、それを肯定することは結局、

パワハラ・アカハラ

を肯定することである。

 

ところがである。

どうやら、絶賛する人の中には、あのラストのフレッチャーの笑顔を、自分の負けを認めた、降参の印、和解の印であると、解釈する人がいるようである。

菊地成孔先生の『セッション』批判について - 映画評論家町山智浩アメリカ日記

先生はまたうなずきます。わかった。お前の怒りはわかった。悪かった。悔しいが認めよう。お前の勝ちだ。

 二人は思わず微笑んで見つめ合います。

 

驚きである。

いや絶句した。

何とも都合のいい曲解である。

どこから、そういう結論が導き出されるのか謎である。

ロッキーなのか、最後は敵も味方もみんなハッピーで終わる漫画の影響なのか?

有名な評論家先生のいう事だ。自分と違ってエスパーなのだろう。

自分はエスパーではないので、あの映画の中でしかフレッチャーの人格を見ることができない。

どのあたりで音楽に愛のある人間と判断したのだろうか?

学院を訪れた幼い少女に笑顔を見せる時か?それとも、教え子が亡くなった知らせを聞いて涙を流す時か?

その教え子も事故ではなく、彼のしごきに耐えられず自殺したのだ。

フレッチャーは単に、自分の理想の音楽を聞かせてくれるであろう手駒を失い、その喪失感に涙しただけである。

主人公のニーマンを焚きつけるために、技術の全く劣る同期のドラマーをバンドに新加入させ、お前より出来が良いとウソを言い、必要が無くなればゴミのように捨てる人間だ。

理想の為には手段を選ばないエゴの塊としてしか表現されていないではないのか?

和解ハッピーエンドと理解するには、フレッチャーは黒すぎる。

 

※上の町山智浩氏の批評はジャズの専門家である菊地成孔氏に宛てたものだが、音楽性については、突っ込まないことにする(自分も怪しいと思うのだが、素人だし、原文へのリンクも切れているので言及しようがない)。

 

大体、ラストに至る前にパワハラ・アカハラが酷すぎて、何度も観るのを止めたくなった。最後まで観ないと評価できないから、我慢して見続けられたに過ぎない。

そして、どんでん返しでフレッチャーに地獄を味わせるという期待もむなしく、何の罰も下らないというのでは、全く怒りが収まらない。

主人公のニーマンがラストで最高のパフォーマンスを発揮すれば、すべて帳消しなのか???

 

何というか、お互い様ではあるが、評価する者と評価しない者の間には、理解しがたい壁が存在するようである。

どちらの側についても幸せに暮らせる社会があればいいが、そんな都合の良いものはないであろう。